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by kazuo_okawa
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タグ:米長邦雄 ( 4 ) タグの人気記事

泣き虫しょったんの奇跡

将棋のプロになるには奨励会を勝ち抜かなければならない。
勝ち抜いて四段になって初めてプロとなる。

そしてこの四段になるための奨励会には年齢制限がある。
それは、夢破れてプロになれない者に早くあきらめさせて別の道を歩む決断をさせる、という面はあるが、同時にこの制度ではいわゆる「遅咲き」は救えない。

瀬川晶司氏は一度は年齢制限から将棋界を退会したものの、サラリーマンになって、アマチュアとして活躍し、プロを打ち負かすまでに至った。
そこで、彼の周りのものは瀬川氏をプロに、と動き出す。
しかし、将棋界の壁は厚い。
ずっとそういうシステムでやってきたではないか、というわけだ。

13年前、私が覚えているのは、米長邦雄新会長が、「プロ入り試験」をする案をリードし、結局、その試験官(棋士)6人と瀬川氏が「差し分け」(3勝3敗)以上なら「プロ入り」を認めるというものだったが、その6人がバラエティに富んでいて非常に驚いたことである。

古田靖氏の「奇跡の六番勝負」(河出文庫)は、瀬川氏作の「泣き虫しょったんの奇跡』とは違うが、ジャーナリストの立場からその経緯が詳細に書かれていて興味深い。

私が一番感心したのは、羽生善治である。将棋界で瀬川氏のプロ入りに反対や慎重な意見が多い中、棋界の王者羽生善治は次のようにコメントしたという。

「瀬川さんが銀河戦でこれほど勝っているのは重い出来事です。年齢制限を設けることは悪いことではないが、20歳を過ぎたらノーチャンスはどうか。ハードルは高くても何らかの道を作ったほうがベターだと考えている」

今から考えれば、当たり前の意見だが、当時の頭の固いごちごちの将棋界でこういうコメントを出せるのは羽生善治の柔軟性であろう。

改めて羽生善治の凄さを感ずる。

「泣き虫しょったんの奇跡」は映画になる。
実に楽しみである。
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by kazuo_okawa | 2018-08-21 23:01 | 将棋 | Trackback | Comments(0)
「将棋ペン倶楽部」最新号(2016年春号)に大沢氏の大変興味深い論考が出ている。
「米長哲学」の真意を探るというものである。

「米長哲学」は私のブログでも何度も書いてきた将棋ファンにはおなじみの哲学である。
即ち、故米長邦雄永世棋聖の「自分にとって消化試合でも、相手にとって大きな勝負には
全力を尽くすべき」という勝負哲学である。
そういう姿勢が、「勝利の女神が微笑む」と続くのだが…。

大沢氏の論考は、米長哲学は、本来嫌な役である首切り役(つまり勝って相手を陥落させる側)の棋士の精神的ケアでないかというもので、確かに、興味深い指摘である。

大沢氏がこの論考を思いついたのは、「将棋世界」2015年5月号で、内藤國雄九段が「米長哲学はたまたま出来た話ですよ」との発言に驚いたからだという。

早速、書棚から同書を引っ張り出してきて、その箇所を確認したが、私は、昨年全くスルーしていた(谷川浩司を弟子に取るかとか、その直前の内藤九段の話が、俄然面白かったからである)。
私自身は、1980年代の米長哲学発表当時、<相撲のように将棋でも手抜きはあるが、超一流棋士はそんなことはしない>という暗黙のルールを、米長が言葉でうまくまとめたものと思っていた。
もっとも、「哲学」の後段、<勝利の女神>論は米長の独創であり、それゆえ、「米長哲学」と呼ばれて当然であろう。

内藤が述べた、「たまたま」論は、「米長哲学」を裏付けるエピソードが、「たまたま」のものだったにすぎない、というのが私の解釈である…。
もっとも大沢氏指摘の側面があることは間違いないだろう。
鋭い指摘である。

(…将棋ファン以外には、全く分からない話ですみません。)

もっとも大沢氏は「米長哲学」に否定的なようですが、
しかし私は
「自分にとって消化試合でも、相手にとって大きな勝負には全力を尽くすべき」という「米長哲学」は大好きです。

おそらく、いやきっと、将棋以外の、人生のどの場面においても、同じだろうと私は思っています。
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by kazuo_okawa | 2016-04-16 18:10 | 将棋 | Trackback | Comments(0)
表紙に大きく羽生名人の写真、裏表紙には升田幸三実力制第四代名人の写真が出ている。

この魅力的な2大スターの写真が出ていれば、将棋ファンなら思わず買ってしまう。
現に私も買ってしまった。
しかしながら内容は、羽生、升田の本質を伝えるものではない。

本著は世代を超えた棋士の名言を列挙しているというものであるが
右ページに棋士の言葉(大きな文字でわずか数行ゆえ一瞬で読める)
左ページに大きな写真と、ほんの少しばかりの解説というパターンの繰り返しであり、
帰りの車中で読み切ってしまう。

何なんですかねこの軽さ。
しかも、この「言葉」の選択がよくわからない。

例えば、「米長邦雄名言集」という著がある。
これはまさしく米長の名言が並べられている名著である。
しかし、本書には、こういう米長の名言などは無い。

いや、中には感心する名言は幾つもあるのだが、実際は、その名言の話者と、写真と、その解説のアンバランス感がぬぐえない。

どんな著でも、冒頭は重要だろう。
なんといってもページをめくった最初の名言である。
本書の冒頭、つまり「100の言葉」ナンバー1は、升田幸三の名言である。

その言葉は「勝負はその前についている」
本書の帯文句にも出ている升田ファンなら言わずと知れた名文句である。

この名言。
先にのべたレイアウトでいえば、右ページはこの一行だけである。
左ページは、大きく升田幸三の写真。
これだけ見れば、升田幸三がどんな場面でこの名言を発したかと思いますよね。
しかしその解説は全くない。
ではどんな解説か。

升田の名言とは何の関係もないエピソードを挙げているのである。
即ち、森内が羽生に勝った時に、事前に入念な準備をして勝ったから「勝負はその前についている」というのである。
森内の努力はそのとおりである。

しかし、升田の発言とは次元が違う。

そもそも升田は、強いものが勝つのだから、勝負はその前についている、と常に述べでいたのである。
現役の升田を知るものならお馴染みのセリフとも言える。
しかしこの意味を解説するのは、実は、大変難しい。
何せ、升田の序盤研究の鋭さは時代を超えていたのである。

それゆえ、この升田の言葉の解説に、羽生対森内をもってくるのは全くお門違いなのである。
まして羽生は、相手の研究、相手の得意戦法に合わせるというのは将棋ファンなら誰でも知られている。
とすれば、森内が羽生に勝ったのは、事前研究が大きな要素を占めるとしても、升田がいう「勝負はその前についている」とは全く意味合いが違う。

まあ、冒頭の例を挙げたが、それ以外にも本書にはこういう違和感がそこかしこに存在する。

冒頭の例だけでも、天才升田のファンとしては、実に悲しい。
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by kazuo_okawa | 2016-03-10 23:55 | 将棋 | Trackback | Comments(0)
「天才・羽生善治が最も恐れる男が明かす『勝つ』極意」
のキャッチフレーズとともに発刊された
渡辺明竜王(三冠)の新著「勝負心」(文春新書)が実に興味深い。

渡辺曰く、
「運」や「ツキ」など信じない。
ゲンをかつがない。
「調子」などというものはない、全て実力。
後悔は時間の無駄。…。
など徹底的に合理的な考えに、共感し、
むしろ、すがすがしさえ覚える。

また全編を通じて
羽生三冠への尊敬と敬意に満ちており
逆に、渡辺竜王を通じて、羽生の凄さも浮き彫りにされる。

プロの気配りやコンピュータとの違いなどの項も大変面白い。

この一冊は是非お薦めである。

ただ読んでいて気になったのは
「私は以前から、米長哲学には素直にうなずけなかった」との下りである。
「以前から」というには、当然、今もうなずけない、となろう。
しかし、そうであれば、あとの記述と照らし合わせて
とうてい渡辺竜王の言葉とは思えない。

さて、突然「米長哲学」と出てきて、
将棋ファン以外の方には何のことか、と思われるかもしれないが
これは、今は亡き米長邦雄永世棋聖の言葉として大変著名なものであり、
「自分にとって消化試合でも、相手にとって大きな勝負には
全力を尽くすべき」という勝負哲学として知られている。

例えば、相手は勝てばタイトル挑戦権を獲得するというような大一番
(或いは逆に、その地位を陥落するというような逆の大一番も同様である)
そして、こちら勝とうが負けようが何ら変わらないというような消化試合を意味する。
こういう勝負においては、しばし手を抜きがちであるが
しかし、こういうときこそ、手を抜かず、否、
むしろ全力で闘うべし、という考え方である。

この考えは将棋ファンも含めて広く共感を呼んだ。

しかるに合理主義者渡辺竜王は、この考えは
「非論理的な内容だ」というのである。

つまり、大事な一番も、そうで無い一番も頑張れ、ならわかるが
大事でない将棋「こそ」頑張れ、というのはおかしい、というのである。

無論、米長の言いたかったのは前者である。
米長の名著「人間における勝負の研究」(詳伝社)や
「泥沼流人生相談」(ネスコ)などをよく読めば分かる。

何故、大事でない一番も全力を尽くすべきかなのか。
自分にとっての大一番は自ずから全力を尽くす、
しかしそうでない一番は手を抜く可能性がある、
それ故に、そうでない一番「こそ」全力であたれと強調したに過ぎない。

ところが、米長は何故そうすべきかの理由を、
そうすることによって「運を呼び込む」からといったのである。

しかし、「運」などと言い出すのは、ここは合理主義者としては、
とうてい納得しがたいところである。
おそらく渡辺竜王もここに納得し得ないのであろうと
私は想像している。

おそらく消化試合でも頑張るのは
「プロ故に、常に、どんなときでも
ファンに最高のパフォーマンスを提供すべきであるから」
という理由からであろう。
だからこそ消化試合も全力を尽くせ、ということであろう。

無論、そのように言わず、「運」を結びつけたところに
米長哲学の真骨頂がある。

【以下は、私の推論である】

渡辺竜王の言いたかったのは、
以下のようなものではなかったか。

<渡辺は、若い頃、大事でない勝負「こそ」全力を尽くせという、
米長の考えは、非論理的と思ってうなずけなかった。
しかし今では、米長は「全てに全力尽くせ」という
意味だったのではと思っている。
しかし、運を呼び込む、などというロマン的な考えはない。
とはいえ、私の言いたいのは、偉大な先輩の言葉だからといって
納得出来ないときは従う必要はなく、もしも受け入れるならば
十分に納得してすべきだ、ということである>

ゴーストライターをつかい、
そしてそのゴーズトライターが微妙に勘違いしたのではないかと
私は、推論している。
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by kazuo_okawa | 2013-11-23 02:06 | 将棋 | Trackback | Comments(0)