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[ 2016-04 -16 18:10 ]
「米長哲学」の真意を探るというものである。
「米長哲学」は私のブログでも何度も書いてきた将棋ファンにはおなじみの哲学である。
即ち、故米長邦雄永世棋聖の「自分にとって消化試合でも、相手にとって大きな勝負には
全力を尽くすべき」という勝負哲学である。
そういう姿勢が、「勝利の女神が微笑む」と続くのだが…。
大沢氏の論考は、米長哲学は、本来嫌な役である首切り役(つまり勝って相手を陥落させる側)の棋士の精神的ケアでないかというもので、確かに、興味深い指摘である。
大沢氏がこの論考を思いついたのは、「将棋世界」2015年5月号で、内藤國雄九段が「米長哲学はたまたま出来た話ですよ」との発言に驚いたからだという。
早速、書棚から同書を引っ張り出してきて、その箇所を確認したが、私は、昨年全くスルーしていた(谷川浩司を弟子に取るかとか、その直前の内藤九段の話が、俄然面白かったからである)。
私自身は、1980年代の米長哲学発表当時、<相撲のように将棋でも手抜きはあるが、超一流棋士はそんなことはしない>という暗黙のルールを、米長が言葉でうまくまとめたものと思っていた。
もっとも、「哲学」の後段、<勝利の女神>論は米長の独創であり、それゆえ、「米長哲学」と呼ばれて当然であろう。
内藤が述べた、「たまたま」論は、「米長哲学」を裏付けるエピソードが、「たまたま」のものだったにすぎない、というのが私の解釈である…。
もっとも大沢氏指摘の側面があることは間違いないだろう。
鋭い指摘である。
(…将棋ファン以外には、全く分からない話ですみません。)
もっとも大沢氏は「米長哲学」に否定的なようですが、
しかし私は
「自分にとって消化試合でも、相手にとって大きな勝負には全力を尽くすべき」という「米長哲学」は大好きです。
おそらく、いやきっと、将棋以外の、人生のどの場面においても、同じだろうと私は思っています。
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