23日に藤井二冠が指した「神の一手」41銀の凄さはその後も反響を及ぼしている。
この手は「相手の飛車をタダでとれる局面なのに、自分の銀をタダでプレゼントする一手」(北野新太・スポーツ報知)という思いもつかない妙手なのであるにもかかわらず、AIも最善手と示していた手であることから「神の領域」「神の一手」などと称賛されたのである。
ところが、この最新のAIが数十億手まで読んだ上で示す最善手を、棋士が指す前に示されることがSNS上賛否を呼んでいるという。
しかし明らかに、AIが最善手を示すことで棋力に関係なく、形勢、最善手がわかり、「見る将」ファンを増やしたことは間違いないだろう。
世界記録を知った上で、その記録を超えるかどうかを楽しむスポーツ観戦のようなものである。
にもかかわらず
「将棋AIが事前に示していなければもっと感動できた。」
「終盤は評価値とか一切見ない方が圧倒的に面白い」といった声も出ているという。
しかしこの一手を示したのがAIだろうが藤井二冠だろうが、①41銀の妙手自体が素晴らしいし、そしてそれを②藤井二冠が指したことが素晴らしいところ、AI表示反対派は、この①②を同時に味わうというだけにすぎない。
逆に言えば、AI表示派は①②を二段階で楽しめる。
要するに楽しみ方の「好み」の問題に過ぎないのであって、「終盤は評価値とか一切見ない方が圧倒的に面白い」などと断言しえるものではない。
そういう好みのAI表示反対派は、単に自分で「AI評価」「解説」を消して、それで楽しめばいいだけの話である。
しかもこの議論は、かつてAI評価値表示の先鞭を切った「ニコ生」で出尽くした議論ともいえる。
その「ニコ生」ではかつて,AI「表示あり」と、「表示無し」の2つを用意したこともある(もっとも表示ありは「有料」なのだが)。
何が言いたいのかといえば、この問題は「楽しみ方の好みの問題」に過ぎないということである。
棋士着手前のAI表示そのものを否定するのは行きすぎだろう(繰り返すが、自分がAI表示を消してみればいい話である)。
この議論を見ていると全くジャンルは違うが、選択的夫婦別姓制度是非の議論を思い出してしまう。