東野圭吾「人魚の眠る家」を読んで思う
2015年 11月 23日
ここ数年思うことであるが、東野圭吾は超売れっ子作家なのに、新聞や週刊誌の「連載」から始めるのではなくていきなり「書き下ろし」であり、しかも廉価な軽装版(ソフトカバー)の出版を続けていることに驚く。
出版不況の中で彼なりに思うところがあるのだろう。
「人魚の眠る家」も軽装版である。
【以下、少しネタバレしています】
ミステリの定義をどのように行うかは難しいところがあるが、広い意味で、何らかの謎、サスペンス、そして意外性を含むものと私は考えている。
そう考えたた場合、本作は、ミステリとすればいささか物足りなく感ずるほど薄味である。
東野の作品ゆえ否が応でもミステリとして読むため、頭の片隅に、プロローグの宗吾はどうなるのだろう、瑞穂のプールでの事故の真相は何なのだろう、ということは念頭に置いて読み続ける。
とはいえ作者自身は正面切って「謎」はぶつけないのである。
無論、プロローグとエピローグでの「結びつき」がミステリらしいストロークであり、途中に登場する新章房子の存在と、若葉の告白もミステリらしい。
しかし作者自身は、そういうところに主眼はない。
東野圭吾の手腕をもってすれば、ミステリの味付けはいかようにも濃くすることは出来る。
例えば、瑞穂の事故に疑問を抱く人物を強く打ち出したり、「新章房子」をもっと早い時点で登場させるなど、ミステリ風味を強く打ち出すなどお手のものだろう。
しかし東野圭吾はそうはしなかった。
薄味の分だけ、脳死と法律、或いは人にとって「死」とは何か、という重いテーマを考えさせられる。
スキー場を応援するために、文庫本「白銀ジャック」を書いたように、東野圭吾は、臓器移植問題を考えて貰うために、わざと、ミステリ味を薄口にしたのだろう。
読み終えて、またしても、作者の手のひらに乗せられていることに気付くのである。
東野圭吾、さすがである。
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