「国家と秘密」~隠された三好報告書
2014年 10月 27日
そもそも我が国では、秘密保護以前に、情報の管理自体が極めてずさんであることや、公文書を平気で廃棄してきた歴史、或いは、一方の「情報公開」は世界レベルから極めて遅れていることなどが指摘されている。
これだけでも衝撃的であるが、自民党のハト派の代表たる谷垣元総裁も、スパイ防止法のときはその問題点を的確に批判しながら、今回の秘密保護法には賛成に回ったという指摘なども「総動員体制」を想像させて怖い。
もっとも長年水俣病訴訟に関わってきた身としては、冒頭のエピソードが印象に残る。
即ち、公文書のずさんな管理は、時として人を殺めるという指摘である。
1956年に発見された水俣病では、発見から遡ること4年前の52年に、熊本県水産課の担当者がチッソの廃水の危険性を指摘しており、「公文書管理の原則に基づき公開されていたならば、水俣病の甚大な被害はくいとめられていた可能性が高かった」と的確に指摘しているのである。
本書ではその報告者の名前は記されていないが、水俣病の歴史では余りにも有名な三好礼治報告書である。
昭和 26(1951)年から昭和27(1952)年にかけて水俣市の百間港付近の汚染はますますひどくなり、生簀の魚が死んで腐臭が漂ったり漁獲が減ったので、水俣市漁協は実態調査を熊本県水産課に要望した。それを受けて、昭和 27(1952)年8 月、三好礼治県水産課係長が現地を調査し、漁業被害は水俣工場からの直接の排水と長年月に堆積した残渣によって漁獲が減少してきたものと結論づけ、排水に対して必要によっては分析し成分を明確にしておくことが望ましいと報告したのである。
世に言う三好報告書であるが、実際にはこの報告書は伏せられ(後に熊大に研究を依頼したときも伏せている)、結局何らの対策も講じられなかったのである。
秘密にしたことが、水俣病被害を拡大させた。
水俣病の歴史から学ぶべきことは余りにも多いが、この、隠された三好報告書もその一つであろう。
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