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by kazuo_okawa
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その表現の視点は誰なのか

2月14日付け日経朝刊の詩人杉本真維子氏の一節が興味深い。
映像作品を観ていて、回想の主体となる人の顔が、当然のように正面から移されているのはおかしい、という指摘である。
こういう、演出上の「暗黙の了解」には了解出来ないとしている。

回想の主体者を正面から映しても良いという映像上の「暗黙の了解」があるのかどうか、私は全く知らないが、少なくとも杉本氏の指摘は正しい。
回想の主体の視点からすれば、回想の主体自身の正面姿が見えるはずはなく
論理的におかしいからである。

日経新聞の中で珍しく文化欄の記事に印象が残ったのは、実は、ミステリに同様の問題があるからである。
私の好きなミステリの世界における「視点」の問題をいち早く指摘したのは
今は亡き推理作家佐野洋氏であった。
古くホームズ・ワトスン形式なら視点はワトスンに限られている。
しかし、ミステリの発展により、物語の視点は助手役に限られなくなってきた。
「神」の視点も含めて実に多彩になってきた。

ミステリの世界では、登場人物の誰の視点かによって
真相は見えなくなってしまう。
「犯人」は全てを知っている。
「探偵側」は全く知らない。
しかし、犯人の行動の一部だけを知っているという登場人物の視点で描けば
「一部を知り、その他は知らない」ために却って、不可思議な状況が作られるわけである。
それはミステリの幅を広げたが、と同時に、
視点の混在があれば(ある時は「神」の視点、ある時は登場人物の視点)
読者は混乱するのみ成らず、それはフェア精神に欠ける。

こういうことをいち早く指摘したのが佐野氏なのである。

例えばAの視点で,Aにわからないはずの描写(例えばBの心理描写など)を
書くのはおかしい、など、前述杉本氏と同様の指摘は無論のこと
実に興味深い指摘を幾つもしており、佐野氏の評論は実に刺激的であった。

氏の評論集「推理日記」は1976年(昭和51年)に発行されたが
氏は早くもそこで「視点」の問題を繰り返し指摘し、
亡くなる2013年までその問題意識は消えることはなかった。

佐野氏がこういう視点の問題にこだわりを持つのは
ファンならご存知の通り、氏が新聞記者出身だからである。

警察報道そのままの視点で書くのか、記者の視点で書くのか
それが読者に分かるようにしないと、事実の信憑度は変わってくる。
また、いうまでもなく「事実」の報道と「評価」は違う。
また「事実」もその根拠を示さないと、読者に対してフェアではない。

ソチ五輪が始まって以来、オリンピック記事の「感動物語」が溢れているが
「記者」の視点でなく、「神」の視点が多い。

まあこういうスポーツ記事は固いことを言うまでもなかろうが
政治・社会記事ではそうはいかない。
いつの間にか、「神」の視点で記事を書き、読者をミスリードするのでは困るのである。

杉本氏の一節から、ふと佐野氏の「視点」論を思い出した次第である。
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by kazuo_okawa | 2014-02-16 23:40 | 司法・ニュースその他 | Trackback | Comments(0)