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by kazuo_okawa
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森博嗣先生へあえて反論する~そして京大ミステリ研

大学教授にしてミステリ作家でもある、
森博嗣氏の新作「思考を育てる『100』の森博嗣講義」(大和書房)を読む。
(といっても買ってから数ヶ月になるが)

森氏は、ミステリもさることながら
この新作のように、エッセイなども大変面白い。
理系のミステリ作家らしく、常識をひと味ひねった
発想が秀逸である。

森氏の発想はおおむね、多数説の考えに
ちくりと一刺しする少数説論者である。

ところが、その森氏が本来の土俵であるミステリの場で、
「ミステリは殺人が必要」という多数説論者なのである。

本書でも、その下りが出てきた。曰く
「ミステリィなので、人が死なないと話にならない」

多数説や常識をぴりりと指摘する森先生にしては
このテーマについては多数説と言うところに
私は少し残念に思えるのである。

「ミステリに、殺人は必要なんですか」
実はこの問いは、何十年も前からあるテーマである。

前述の通り、通説は、殺人必要説である。

その理由として、「それがミステリなんだ」という
全く理由になっていないものもあるが
アメリカの推理小説家、S・S・ヴァン=ダインが
「長編小説には死体が絶対に必要である。
殺人より軽い犯罪では読者の興味を持続できない。」といったように
殺人で読者の興味を引くのがミステリというのが通説なのである。

森氏は、違う表現をしているが「殺人必要説」であることは違いない。

私は、ミステリをミステリならしめる要素は
「発端の謎、中段のサスペンス、結末の意外性」
と思っており、「殺人」は必ずしも必要ではない、との考えである。

更に言えば、「謎」と「意外性」が本質的要素であり
「サスペンス」も「解決への論理」(これも論理学で言う厳密な論理でない。
読者になるほど、と思わせる程度の論理である)も
所詮「手段」にすぎない。
同様に、「殺人」も読者を引きつける「手段」に過ぎないのである。

しかし「殺人」という「手段」は意味がないわけではない。

例えば、殺人ではなくて「大家の蔵から一升瓶を盗んだのは誰か?」
などという謎は読者を引きつけないであろうし、
作中人物の証言(目撃者とか関係者の証言)も
(そんな問題で一々真面目に答えるか、と)
その信用性がおけないでしょう。
つまり、どうでもいい謎なら、作中人物が
真面目に答えるのもおかしい、となってしまうのです。

「殺人」成ればこそ、人々は、その物語の進展に
興味を覚えるし、また、作中人物の証言も
殺人なればこそ(犯人や、思惑のある人以外は)
大抵、「捜査」に協力してくれるであろうことから
その証言を信ずる根拠が出てくるわけです。

とすれば、殺人が無くとも、
魅惑的な謎、結末の意外性が出せれば、それは立派なミステリである。
従って、ミステリに殺人は必要不可欠ではない。

…とまあ、こんな議論を、
京都大学推理小説研究会時代にしてきたのですね。

どんなことでも、やたら、理屈っぽくて、
とことん議論する。
そして、その理屈や議論自体を楽しむ。
ひときわ風変わりな大学サークルでした。

その議論を楽しむ風土から、つまりその京大ミス研から、
多くのミステリ作家と
多くの法律家が排出しました。

京大ミス研から、ミステリ作家が多く輩出したことは
今日、よく知られていますが、実は
同じように、法律家も大変多く輩出しているのです。
これはあまり知られていませんが、
こんなサークルは、日本のあらゆるサークルの中で
京大ミス研だけです。

本日、京大11月祭に行き、京大推理小説研究会に顔を出す。
今も、後輩達が頑張ってくれているのは嬉しい。

森先生に反論するつもりが少し横道にそれてしまいました。
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by kazuo_okawa | 2013-11-23 23:32 | ミステリ | Trackback | Comments(0)