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by kazuo_okawa

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仮に、仮にあなたが時速60キロメートルの制限のある公道を
自動車で走行しているときに、
60キロメートルではあまりにも遅すぎると思っても
60キロ制限の法律は守らなければなりません。
それを「解釈」で、80キロメートルまでは許されることにしよう、と
勝手にルールを変更することも出来ません。

ルールで縛られている側が
「解釈」の名の下に勝手にルールを変えてはいけません。
こんなことが許されれば「ルール」も何もあったものではありません。

規制される側が、「解釈」でルールを変えたらいけない。
こんなことは誰にでも分かることです。

繰り返しますが、これでは規制の意味は全くありませんからね。

さて問題はここからです。

安倍首相が進める集団的自衛権の行使が出来るように
憲法の「解釈」を変える、という議論のおかしさは、まさにここにあります。

政策論を議論するのはいいことです。
集団的自衛権を認めるかどうか、大いに議論すればいいでしょう。
そして集団的自衛権を認めようというのが、国民の大多数の意見ならそうすればいいでしょう。
しかしそのためには、憲法を変えなければなりません。

つまり、今の日本の平和憲法下では、集団的自衛権は認めていませんので
これを解釈で認めるというのは全くもって乱暴きわまりないことです。

そもそも憲法は、安倍首相や権力者の行為を規制しているものです。
権力者はしばし暴走しますからね。

まあいってみれば暴走する安倍首相の(ような人物の)ために
憲法があるのです。
そのために規制しているのに
規制されている側が、規制しているルールを勝手に変える。
こんなことがあってはもう無茶苦茶です。
まさに「泥棒の論理」です。
しかし、安倍首相が、今、国会で答弁していることは
この無茶苦茶のことを何ら恥ずかしげもなく述べているのです。

こんな安倍政権を許していること自体が
あまりにも恥ずかしいといわざるをえません。
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by kazuo_okawa | 2014-02-28 22:00 | 司法・ニュースその他 | Trackback | Comments(0)

トリプルプレイ判決

2月26日の朝日新聞に興味深い記事が出ていた。

京都市内の繁華街で客に風俗店を紹介する風俗案内所を経営していた男性が、
学校や診療所などの公共施設から200メートル以内で案内所の営業を禁ずる
京都府条例の規定は違憲だなどとして、府を相手に営業権の確認を求めた訴訟の判決が25日、京都地裁であった。
栂村明剛裁判長は「規定は府民の営業の自由を合理的裁量を超えて制限するもので違憲・無効だ」と判断。公共施設から70メートル離れた場所での営業を認めた。
風俗営業法に関連して2010年11月に施行された府風俗案内所規制条例は、公共施設から200メートル以内で風俗案内所を営業することを禁じ、違反者への刑事罰も設けている。男性は11年2月に同条例違反容疑で逮捕され、起訴猶予処分となり案内所を閉店した。
判決は、公共施設の近隣で一定の営業規制をすることは「重要な公共の福祉に合致するもので必要かつ合理的だ」と判断。そのうえで、①府条例はキャバクラなどの接待飲食店の案内と、性風俗店の案内を区別せずに規制している②案内所の営業禁止範囲の方が風俗店の禁止範囲(70メートル)よりも大きい――の2点を指摘。「明確な根拠が認められない」と述べ、府側の「案内所の影響力は風俗店とは比較にならないほど強い」とする主張を退けた。(以上、朝日新聞からの引用)

判決文そのものは読んでいないので、あくまでこの新聞記事での感想だが
率直に言って素晴らしい。

大阪弁護士会の集会で元裁判官が発言していた通り
「違憲判決を書けば裁判所では生きていけない」ところ
違憲判決を出すこと自体が勇気のいることである。

また、行政相手の裁判で、行政をまかせるということ自体も同様である。

そして、本件が風俗がらみであり、「風俗案内所」の規制など当たり前でしょう、という
多くの善良な市民の感覚があるところでの、言わばそれに反する判断であるところが
一番凄い。
だって、風俗を規制する側に立つ方が批判を受けないでしょう。
それを逆の立場に判断するのですから凄い。
まさにトリプルプレイである。

実は、市民の多数の意見と違っても、守るべきものが「人権」である。

この国に、人権、憲法をないがしろにするとんでもない政治家がいるからこそ
この憲法違反判決を改めて賞賛したい。

竹崎最高裁長官の異例の退官の後の人事に
政権が最高裁判事の人事に介入してくるのではないかと注目されている。

そんな時期だからこそ、憲法を忠実に守る
この裁判官に心から敬意を表する。

【2015年2月21日追記】
ニュースによれば、2月20日に大阪高裁は、同事件について京都府を逆転勝訴させたという。
つまり、条例を合憲としたのである。
憲法違反が上級審まで維持されるのは本当に少ない。
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by kazuo_okawa | 2014-02-27 23:45 | 司法・ニュースその他 | Trackback | Comments(0)
インターネット上に出た、個人の「不都合な情報」は消えることがない。
本人が死亡しても消えない。
それを表して「デジタルタトゥー」と呼ばれる。

それゆえに、ネット上の情報を消して貰う権利
「忘れられる権利」の構築が必要であり、その権利については
私のブログ(2013年12月12日)でも紹介した。
アメリカがそれに反対していることも。

ところが日本で、観単に自己の「不都合な発言」を消す人がいる。
安倍首相周辺の言葉の軽さである。

まるで井戸端会議のように(といえば「井戸端」に失礼か)
好き勝手に「放談」し、そしてそれを批判されると
平気で自分の放った言葉を「撤回」する。

本日のニュースを見ても、
この間NHK会長のドタバタ劇はあまりにもひどいが
「撤回」に関して言えば
以下の通り簡単に発言を撤回している。
即ち、1月の会長就任会見で従軍慰安婦について「どこの国にもあった」などと発言したNHK の籾井勝人会長が、2月12日の経営委員会で「視聴者、各方面にご迷惑を掛けた」と述べて 従軍慰安婦発言を撤回した。

籾井会長だけではない。
衛藤晟一首相補佐官は2月19日、安倍晋三首相の靖国神社参拝 に対する米政府の「失望」声明に対して、「こちらこそアメリカに失望した」と勇ましく述べた自身の発言を、批判を受けてこれまたいとも簡単に撤回した。

昨年も同様の撤回はある。
麻生太郎副総理兼財務相は、憲法改正をめぐってナチス政権を引き合いに「 手口に学んだらどうか」などと発言したことについて、「誤解を招く結果となった」として発言を撤回している。

石破茂自民党幹事長は自身のブログで、特定秘密保護法案に反対する市民 デモについて「テロ行為と本質においてあまり変わら ない」と述べたが、批判を受けてこれまた、この発言を撤回している。

この人達は、その「撤回」で良し、として、それ以上の責任はとらない。
そして何ら辞職に追い込まれていない。
何とも「軽い」人たちである。

一方で、「デジタルタトゥー」に悩まされる多くの人がいる。

安倍周辺の人達が発言の責任を、「撤回」することによって、とらないのであれば
せめて、「デジタルタトゥー」に悩まされる方のために
「忘れられる権利」の構築に力を尽くすべきであろう。
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by kazuo_okawa | 2014-02-26 23:59 | 情報・プライバシー | Trackback | Comments(0)

徳州会事件の「謎」

ニュースによれば医療法人「徳洲会」グループの公職選挙法違反事件を受けて
自民党を離党した徳田毅衆議院議員が2月24日に議員辞職願を提出した、という。
これは、昨年9月の事件発覚から5カ月目であるが、
徳田氏はこの間、衆議院の本会議や委員会には出席せず、表だった議員活動は全くない。

そうでありながら、辞職表明に時間がかかったことについて、徳田氏は
「信じたいという思いで捜査の推移を見守ってきた」と釈明したという。

ここまでがニュースであるが、
捜査の推移を「見守ってきた」その徳田氏が、ようやくこの時期に辞職したのである。
一体何故この時期なのか。

そもそもの発端の徳州会側の事件については、議員の姉自体が
昨年12月13日に東京地裁の勾留理由開示の公判で
「買収目的」と起訴事実を認めている。
とすると徳田議員のいう「捜査の推移」は、徳州会側の捜査だけでなく
関連事件の「全て」の「捜査の推移」とみるのが自然であろう。

普通に徳田氏のコメントを前提にすれば、ずっと見守ってきたが
「信じたい思い」がかなわなかったので、この時期に、辞職したことになる。
つまり捜査側(検察側)の一定の結論が出たのだろう。

あくまで一般論であるが、検察は、被疑者のバッジと引き替えに起訴を見合わせる、ということをする。
バッジ(職)を捨てるということは、被疑者の「反省」を示し
同時に、「社会的に制裁を受けた」ことになるからである。
無論、「失職必至」の情勢ゆえ、先に辞職したともいえるが、それならば
もっと早く辞職すべきであろう。
何故この時期なのかは不明である。

また、徳田氏の辞職によって
いわゆる徳州会事件の捜査は一段落付いたであろうことも想像出来るが
それにしても、あの徳州会事件の捜査の結果、徳州会側以外は
結局、問題にされたのは猪瀬元東京都知事だけであった。
これも本当にそうなのかは不明である。
本当に、徳州会側の金員は、猪瀬氏以外に動いていないのであろうか。

2013年12月13日に「徳州会事件と検察改革の行方」と題して
疑問をブログに書いたが、そのときの疑問は現在も消えない。
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by kazuo_okawa | 2014-02-25 23:09 | 司法・ニュースその他 | Trackback | Comments(0)
テレビを見ると、キムタク木村拓哉が、宝くじグリーンジャンボの
コマーシャルをしている。

そこでいつも思うのだが、
宝くじ売り場の宣伝文句を見ていると
「この売り場から1000万円当たりました」
「この売り場から1等が出ました」という
これまで大当たりが出たことを売り文句にするところが多い。

しかし、それまでに、「当たり」が出ていようと、出ていまいと
次の当たりの確率は全く同じである。

にもかかわらず、それまでの当たりを売り物にするということは
それに惹かれるという客が多いと言うことであろうか。

とすれば、逆に次のような売り文句はどうであろうか。

「この売り場から過去3年間、2等以上が出ていません。
そろそろ大きな当たりが出る頃です」

無論、これも確率的には間違っている。
次の当たる確率はどの売り場でも同じだからである。

そもそも宝くじを買う人は、およそ確率を信じていないであろう。
確率を無視した人間心理が、宝くじの購入に走るとしたら
「当たりが続いた」で買う人もいれば、
「当たりが続いていない」で買う人もいるだろう。
その意味で、当たりが続いていないという逆転の謳い文句を何故しないのかと、私はいつも思うのである。

ちなみに、合理主義者である私は、確率に依拠しており、宝くじはこれまで一度も買ったことがないし、これからも買うつもりもない。

だってあなた、私がこれから密かにランダムな「8桁」の数字を心の中で覚えますが、
あなたは、それを当てることが出来ますか。
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by kazuo_okawa | 2014-02-24 23:11 | パズル・統計・数学 | Trackback | Comments(0)
ソチオリンピックもようやく閉会式であるが、
この間のソチ報道ラッシュのため、本来報道されるべき
オリンピック以外の重要なニュースが隠れていた可能性がある。

ひたすら「戦争国家」へと突き進む安倍首相とその側近の暴走ぶりや
大阪の暴走市長の暴挙などはさすがに報道されているが、
水俣病訴訟に30年以上関わっている弁護士としては
水俣病に関する毎日新聞(2月19日付)の記事が目を引いた。

「水俣病認定 国が代行」という見出しの通り、
公健法上「水俣病」に当たるかどうかの判断を、これまで行ってきた熊本県でなく
国が代行するという。
しかし国が関与することによって、またまた、本質的な解決が遠のく可能性が高い。

このニュースは、実は大変なニュースであるが、毎日新聞以外の各紙は
報道していないか、極めて小さな扱いであり、おそらく
多くの市民はこのニュースの意味に気づかないであろう。

実際、一体全体、何のことかと思われる方が多いであろう。
それはそうである。
水俣病問題は国は一貫して、その責任の隠蔽に終始し
その仕組みを分かりにくくしてきたからである。

石油コンビナート政策という「国策」の被害である公害、水俣病。
その患者救済のために公健法という法律があるが、
患者はなかなか「公健法上の水俣病」と認定されない。
そこで、国家賠償法上の責任があるとして国相手に裁判を行い、
2004年10月に我々は勝訴判決を得た。
即ち、水俣病発生について、国の責任を認め
合わせて、従来公健法行政でしてきたような誤った「狭い認定手法」でなく
最高裁は、原告を正しく水俣病と認めたのである。

この2004年判決にもかかわらず、国は驚くべき事に、その後も
公健法における従来の認定手法は正しい、と強弁した。

しかし「水俣病」は何処へ行っても「水俣病」である。
国家賠償法上は「水俣病」であるが、公健法上は「水俣病でない」
などということはありえない。

2004年10月以降、マスコミは、「2つの水俣病」とそのおかしさを
批判してきたが、しかし、国は頑としてその姿勢を変えなかった。

私達は、そのため再度裁判を起こさざるを得ず、そして、
2013年4月に、極めて当たり前の勝訴判決を得たのである。
つまり、国賠法上の「水俣病」は、公健法上の「水俣病」であるという
常識的な判決を下したのである。
こんな当たり前のことを認めさせるために9年かかったことも異常だが
何と、国はその後も、姿勢は変えない!

しかし、熊本県は2013年最高裁判決を受けて、
まあ何というか、批判も多いが、それなりに頑張ってきた。

その中でのこのニュースでなのある。

国が代行するのである。今後、何が起こるか分からない。
むしろ、救済が遠のく可能性がある。

そうならないように国を注視しなければならない。
そういう意味で重要なニュースなのである。

ここまで書いてきてもなかには、水俣病は、過去の、そして地方の問題と
思っている方も多いかもしれない。

しかし、実はその構造は、「国策」の被害の押しつけという点で、
「基地沖縄」「原発福島」と、その構造は同じである。

この水俣で、「正義」が実現されないと、沖縄、福島でも正義は実現されないだろう。
まさしく同じ闘いなのである。
もしも正義が実現されないとなれば、大変恥ずかしいことである。

オリンピック報道に埋もれず、大きく報道した毎日に敬意を表したい。
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by kazuo_okawa | 2014-02-23 20:37 | 司法・ニュースその他 | Trackback | Comments(0)
エコノミスト菊池英博氏の新著
「そして日本は略奪される-アメリカが仕掛けた新自由主義の正体」
(ダイヤモンド社)が出版された。

菊池氏は、新自由主義の財政政策に反対し
消費税増税にも強く反対する。
増税反対の根拠は、日本は決して「赤字国」ではなく
対外的に世界最大の純債権国であるというところにある。
国の財政収支はいわゆる一般会計だけで見るものではない。
「剰余金」「積立金」などの特別会計も含めてみれば
日本は決して「赤字」でないのである。

実は私は4年前に菊池氏の講演を聞き、当時思ってもいなかった視点に説得力を感じた。
そこで、その後、3/11震災後に、大阪弁護士会法友倶楽部のシンポジウム
「復興財源と雇用創出」のパネリストとして、更には
大阪弁護士会の講演の講師にお招きした。

そもそも「自由」がはびこれば力の強いものが勝つ。
「自由」の名の下に「関税障壁」を取っ払えば
アメリカが日本の富を収奪すると言うことは何となく想像出来るところである。

同氏の新著は「超金融緩和、消費増税、TPP」で日本の巨額マネーが
アメリカに略奪され、日本では「格差社会が益々拡大する」ということを
具体的に丁寧に説明したものである。

ところで菊池氏は、2012年3月2日の衆議院予算委員会で
民主党推薦の参考人として呼ばれ、「日本は『赤字』でない」
「消費増税は不要である」「日本のデフレは恐慌型であり、
消費増税でなく、政府主導の金融フォローしかない」との意見を力説した。
しかし安倍政権は、菊池意見の内、消費増税は不要だ、
というような自己に都合の悪い意見は目にもくれず、
政府投資など自己に都合の良いと事だけをつまみ食いした。

ズルいというか、たくましいというか、何というか、あきれてしまう。

横道にそれたが、皆さんに、本書を、是非お薦めしたい。
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by kazuo_okawa | 2014-02-23 02:04 | 本・書物 | Trackback | Comments(0)

森信雄七段「逃れ将棋」

将棋の森七段は、
故村山聖を筆頭に山崎隆之、糸谷哲郎など優秀な弟子を育てた名伯楽である。
村山との師弟物語は何度読み返しても涙が出る。

と同時に森七段は「スーパートリック109」や「あっと驚く三手詰」など
詰将棋や次の一手問題の創作の名手である。
「あっと驚く三手詰」などは、その表題通り、わずか三手詰なのに
人間の心理の落とし穴をついてなかなか解けない。
三手という超短手数の中に「妙手」を織り込んだ見事な作品集である。

その森七段がこのたび「逃れ将棋」(実業之日本社)を発行した。
不思議な表題であるが、森七段の創作である。
その本の帯文句には「将棋界初の逆転詰将棋問題集」とある。

う~ん。
その逆転の発想に驚く。
将棋は相手の王を詰ますゲームである。
それゆえ王を詰ます「詰将棋」は山ほどある。

ところが「将棋界初」という森七段の考えたゲームは、何と、
詰まされる側に立った上で、詰まされないようにする、
つまり「逃げるが勝ち」というゲームでなのである。

囲碁の死活問題からの類推で、将棋でも「生きる(逃げる)問題」というのは
あっても良さそうだがこれまではなかった。

やはり、将棋の場合は、王を詰ますゲームをという本質から
こういう問題は思いつきにくい上、
仮にそういう問題を思いつき、作ろうとしても「守りの妙手」は浮かばない、ということもあろう。

帰宅の電車の中で最初の10問ほど解いたがこれが結構面白い。
詰ます爽快感とは違う、逃げ切る爽快感というのは、実に不思議な感覚である。

森七段の職人芸に感心する。
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by kazuo_okawa | 2014-02-22 00:27 | 将棋 | Trackback | Comments(0)
いささか旧聞に属するが、ニュースに寄れば、作家の村上春樹氏が月刊誌「文芸春秋」の昨年12月号に発表した短編小説「ドライブ・マイ・カー」の記述に抗議の声があがったという。
 即ち、俳優の主人公が、専属運転手で中頓別町出身の24歳の女性と、亡くなった妻の思い出などを車中で語り合うが、その女性は同町について「一年の半分近く道路は凍結しています」と紹介した際、火のついたたばこを運転席の窓から捨てたところ、主人公の感想として「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」とする記述に対して、北海道中頓別町の町議がたばこのポイ捨てが「普通のこと」と表現したのは事実に反するとして抗議した。町議によれば「町の9割が森林で防火意識が高く、車からのたばこのポイ捨てが『普通』というのはありえない」からという。

 村上氏は単行本にするときには町名を変えると表明したため、問題は収拾したが、これは大変興味深いニュースであった。

 地の文と、物語の登場人物の主観的感想とは位置づけは全く違う。

 地の文で、事実と違う記述をするのは基本的に許されないであろう。
 本作で言えば、地の文で「中頓別町ではみんなが普通にやっている」と書けば、これは大問題である。作者は批判されてしかるべきであろう。

 しかし、登場人物の感想は別である。
 極端に言えば、まさしく、作者が作り上げた人物(非常識な人物の場合もある)の感想なのであるから、世間一般からいって非常識な感想でも語らせることが出来る。
 とはいえ、何故そのような人物なのか、何故そのような発言をさせるのかという、物語創造の神である作者にとっての必然性は必要だろう。

 このように思うのは私自身が長年の本格ミステリファンだからである。

 精緻を極めた本格ミステリは、地の文や登場人物の発言・感想など全てが作者の計算のもとに作られる。仮に、登場人物が、事実に反する発言・感想をすれば、そこに何かがあると考えるのが普通である。
 例えば、そのような事実と違う感想を言うその人物は、「世間知らずの人物」であるとか、「たった一つの例で一般化する人物」であるとか、何らかの、作者としての意味づけがあるだろうと思うのである。
 そして、事実と違う感想を述べたことによって、その登場人物が前述のような人物であることが読者に推理され分かる、というのでなければならない。

 佐野洋氏があげられた例だったと思うが、警官が、組織上あり得ない発言をすれば、その警官は実は「偽警官」となる。
 このように、本格ミステリであれば、それが事件の謎を解く手がかりに成るかもしれないのである。
 逆に言えば、何らの必然性もなく作中人物にそういう発言をさせるのであれば、読者に余計な(無意味な推理などの)負担を追わせるだけであり(不快な記述なら、尚更問題である)、「意味づけ」の無い記述は本格ミステリとしては「駄作」ということになる。

 さて、本格ミステリファンとしての感想を述べたが、本件の一番の問題は、物語の登場人物の一感想をそのまま信ずるという読者の存在を前提にしている事であろう。

 この日本では、新聞などのマスコミ報道をそのまま鵜呑みにする人が多い。
 無論、そのこと自体が問題である。
 ましてや、単なる架空の物語の、それも一登場人物の単なる感想を本気で信ずるというのは論外なのである。
 
 この国で必要なのは、メディアリテラシー、或いは、架空の物語や根拠の無い話は信じてはいけないという、合理的な考え方を啓発すべきであろう。

 村上春樹のこの表現を抗議した「町議」も政治家ならば、まずなすべきは、この「啓発」をすべきではなかったかと、私は思うのである。
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by kazuo_okawa | 2014-02-21 00:39 | Trackback | Comments(0)
18日のニュースによれば、谷垣法務大臣は、「法治国家においては、確定した裁判の執行は適正に行われなければならない」と述べて、死刑執行を進める発言をしたという。

法治国家!

憲法を無視続ける安倍自民党の大臣が「法治国家」などと発言するのは、茶番以外の何物でもない。

そもそも、法治国家なら、死刑執行を定めた法律よりも上位にある「条約」を守らなければならない。
法律よりも条約が上位に位置することは、イロハのイである。

日本は、死刑廃止条約は結んでいないから
(これ自体が世界の流れからすれば問題だが)
死刑執行は問題ないというのは間違いである。

日本は国際人権規約を批准し、拷問禁止条約も締結している。
ではこれらの条約は、日本の死刑についてどのように評価しているのか。

前者の国連自由権規約委員会は,2008年の第5回審査において日本政府に対して「死刑の廃止を前向きに検討」するようにとの勧告を行っている。
後者の国連拷問禁止委員会は,「死刑廃止の可能性を検討すること」を求めた。
では安倍・谷垣自民党はこれらの条約を受けて何をしたか。

何もしていない。
ひたすらに死刑執行している。

「死刑廃止」の前向きの検討も,「死刑廃止の可能性」の検討も
何らしていない。

法治国家なら、条約を尊重してまずこの検討をすべきであろう。

にもかかわらず法律よりも上位にある条約を、全く無視しているのである。
「法治国家」も何もない。

条約を無視し、法治主義に反しながら
その一方で「法治国家」を口にするのは、全く茶番としか言いようがない。


 
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by kazuo_okawa | 2014-02-19 22:34 | 司法・ニュースその他 | Trackback | Comments(0)