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by kazuo_okawa

立憲主義という「妖怪」?

昨年ほど、立憲主義という言葉が国民に広く知れ渡ったことはないだろう。
「主権者」である国民が、一時的に権力を預けたに過ぎない「権力者」が、その権力を濫用しないように縛るのが立憲主義である。

安倍首相はこの立憲主義を破壊した。
立憲主義が知れ渡って一番困るのは安倍首相だろう。

憲法記念日を前にしたこの5月2日、
さっそく御用学者が産経新聞に次のような寄稿をしている。

<妖怪が日本国を徘徊している。立憲主義という妖怪が…>という西修駒沢大名誉教授の文章である。
言うまでもなく、この書き出しはカール・マルクス「共産党宣言」をまねたモノであるが、「立憲主義」を、「共産主義」と同じと思わせることによって、印象を悪くさせようというのだから、何重にももの悲しい書き出しである。

西氏の論考はあまりにもおかしい。(以下、<>は西氏の論考の引用)

<第1に、「憲法とは国家権力を縛るもの」という定義それ自体がいたってあいまいである。そのあいまいさをよりどころにして、自分たちの意に沿わない行為が国家によっておこなわれれば、立憲主義違反と決めつける。実に手前勝手な立憲主義論が横行しているように思われてならない。>

「自分たちの意に沿わない行為が国家によっておこなわれれば、立憲主義違反と決めつける」こんな決めつけを誰がしていますか。
集団的自衛権行使の戦争法は、「自分たちの意に沿わない」から、立憲主義違反と言っているのではなくて、憲法違反だから、立憲主義違反と主張しているのである。

<立憲主義の本質は、国家権力の恣意的行使を制約することにある。>
これは正しい。
全部嘘なら誰も信じないが、御用学者の論考は、時折、正しいことを書くからごまかされるんですね。

<国家の役割がきわめて肥大化してきている今日、国家の機能もそれだけ大きくなる。それと同時に、ともすれば国家はその権力を濫用(らんよう)するおそれがある。そのような権力の暴走を阻止するのが、立憲主義の根本的な考え方である。国家権力が恣意的に行使されているかどうかは、民主主義のルールによって定まる。>

問題はここです。
「国家権力が恣意的に行使されているかどうかは、民主主義のルールによって定まる。」
これでは多数決民主主義で何でも出来ることになる。
実際、多数決民主主義には限界があり(小選挙区制のとおり、選挙は民意を正しく反映するものでない)、だからこそ、そのような限界ある多数決民主主義で選ばれた「一時的権力者」が、あたかも何でも出来るかのように思って暴走しないように予め歯止めをかけておかねばならないのである。
それが立憲主義である。
繰り返すが「国家権力が恣意的に行使されているかどうかは、民主主義のルールによって定まる」というのは誤りである。

更に西氏は、憲法は誰を縛るのか、について「相対化」を図る。
つまり、専ら権力者を縛る、という考えに反対すべく次のように言う。
<要するに、憲法の尊重擁護義務は、ふだん権力を行使する立場にある公務員などを「特別に」対象にしたものであって、国民が憲法を守るべきは「理の当然」だから、条文の中に入れなかったというだけのことなのである。>
国民は憲法を守らなくて良いのかといえば、無論そんなことはない。
しかし、憲法の成り立ちからして、憲法は権力者を縛る、という原則をおさえないといけない。
その上で、国民が憲法を守るのは、「理の当然」だから、ではない。
主権者たる国民が、自ら憲法を作ったからである。
自分たちで作ったから、自分たちは守ると言うことである。

<第3に、集団的自衛権に関する今回の政府解釈の変更は、立憲主義の破壊になるだろうか。>
当然になる。

<政府が自衛隊発足以来、解釈を変えていないのは、「必要最小限度の自衛権の行使」は憲法に違反しないとの立場である。今回の解釈変更は、その「必要最小限度の自衛権の行使」を、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる明白な危険がある場合」に限定して、集団的自衛権の行使を認めたにすぎない。従来の解釈変更より、論理性は保たれている。>
解釈を「変えた」部分を問題にしているのに、突然「解釈を変えていない」部分をあげて、「論理性は保たれている」というのであるから、全く、論理破綻である。

<政府の最大の任務は、国の存立と国民の生命および諸権利を保全することにある。それはまた、立憲主義存続の前提でもある。国際社会の厳しい現実を直視すれば、限定的な集団的自衛権の行使は立憲主義の破壊ではなく、むしろ立憲主義の存続要因という結論に帰着するはずだ。>
反論する気もしない暴論ですね。
「政府の最大の任務は…」などと言って、とかく政府(権力)が勝手なことをするから、憲法を定めてこれを守りなさい(立憲主義)と言っているのですね。
「国際社会の厳しい現実」は改憲派の常套文句だが、ならば、憲法違反の戦争法を制定するのではなくて、正面から「憲法改正」すべきなのである。

<「国家権力は敵」という独善的な考え方のもとに、自分たちの政治目的を実現するために立憲主義という言葉を利用する-いわばポピュリズム憲法論が、現代日本に徘徊している妖怪の正体と映る。>
「「国家権力は敵」という独善的な考え方」というのは、歴史に学ばない権力者の発想である。また、誰も 「国家権力は敵」と言ってない。
「国家権力はしばし暴走するから、暴走しないように縛りましょう」というのが立憲主義で有り、今日普通の考えである。

「国家権力は敵」とか「独善的」とかオーバーな表現でレッテルを貼って批判する。
これぞポピュリズムである。
産経流ポピュリズムに騙されないようにして下さいね。



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by kazuo_okawa | 2016-05-04 21:02 | 司法・ニュースその他 | Trackback | Comments(0)