理系大国の裏にあるもの
2016年 01月 17日
「担い手育成 政府が大綱案」とある。
内容は、小学校から大学まで先進的な理数系教育に取り組む、とあり、これは安倍政権が取り組む成長戦略と連携し、経済のグローバル化の中で活躍できる人材の育成に焦点をあてるという。
これだけを見れば立派な政策のように思える。
現に私自身は、基礎的な理系的教育は、文系理系に限らず、全ての教育に必要だと思っている。
このことは、東進ハイスクールの志田氏の著作を紹介する中でかつてブログでも触れた通りである。
数学的思考、論理的思考、合理的思考は、例えば詐欺師や為政者の嘘に騙されない為にも、
また論理的な議論を交わし民主主義の前提としても必要であると私は考えている。
しかし政府が考えている「理系教育」は、言わば政府に批判の矢が向きかねないような合理的思考を教えるというものでは決して無いだろう。
安倍成長戦略と連携させるというのであるから、技術開発・新産業発展に役立つ「理系」であることは言うまでも無い。
一方、昨年から画策されている「文系不要論」。
安倍政権にとってみれば、昨年の違憲安保法に憲法学者の殆どが安倍首相を批判したことはおそらく腹立たしかったに違いない。
教育学者や人文系学者、いずれも安倍首相にとっては腹立たしいのであろう。
しかしだからといって文系不要論は行き過ぎである。
文系を廃止し、安倍成長戦略に連携する「理系」大国というのは全く危険きわまりない。
要するに、政治的なことは考えず、ひたすら技術開発・新産業に役立つ「理系人間」を育てたい、ということである。
一見もっともな「理系大国」であるが、文系不要論と合わせると、あまりにも露骨で、あまりにも危険といわざるを得ない。