福島地裁の素晴らしい判決(その2)
2014年 08月 28日
原発被災者の「自死」事案で被告東電の責任を認めるか注目された裁判であったが、内容はすでにニュースで流れているとおり、被告の「脆弱性」を理由とする反論について、判決は被災者甲氏の脆弱性を認めながらもそれを因果関係否定の理由とせず、損害額のところで2割の減額としている。
この2割減額が無ければ、最高に画期的であるが、さすがに、そこまでは難しかったようである。
とはいえ、良い判決であることには変わりない。
判決を読んでいると、予見可能性につき、次のような下りがある。
被災者甲氏のおかれた大変なストレス、すなわち避難に伴うよるストレスなど様々なストレスを列挙した後
「これらのストレス要因は、どれ一つをとっても一般人に対して強いストレスを生じさせると客観的に評価できるものである上、日常生活において経験することも滅多にない希な出来事であるといえ、甲自身も本件事故前には全く予期していなかったものと推認される。予期せずに、そのような強いストレスを生む要因たり得る出来事に、短期間に次々と遭遇することを余儀なくされることは、健康状態に異常のない通常人にとっても過酷な経験となるであろうことは容易に推認できる」と述べる。
つまり、本人にとって予期し得ない出来事がさらに過酷さを生む。
一方、被告の予見可能性に関し、
「被告は,原子力発電所が仮に事故を起こせば,核燃料物質等が広範囲に飛散し.当該地域の居住者が避難を余儀なくされる可能性があることを予見することが可能であった。そして,避難者が様々なストレスを受け. その中にはうつ病をはじめとする精神障害を発病する者.さらには自死に至る者が出現するであろうことについても,予見することが可能であったというべきである。」と述べる。
判決文を、平板に読んでいると「予期できない」「予見できる」と
一件矛盾するように思うかもしれないが、無論そうではない。
甲氏なら甲氏という特定の人物が、次々とストレスに遭い、精神障害を発症し、そして自死するなどいうことは、とうてい予期できない。
甲氏自身にとってもそうである。
それはそうであろう。
しかし、特定のある個人ではなくて、「誰か」に起こるというのは別である。
不特定多数の者が次々とストレスに遭い、そしてその中から精神障害を発症する者が出て、そしてさらにその中から自死する者が出るということは予見できるであろう。
このことは決して矛盾しないのである。
判決は被告東電にこの予見可能性を認めた。
ここが良い。